たんぼワンダーランド

さんさんくらぶが田んぼ活動を始めたのは2005年からなので、早くも11シーズンを終わり、今年2016年は12シーズン目を迎えている。春先に田植えの準備の代掻きを始め、お祭り気分の田植え、半端でなくきつい田の草取り、収穫の喜びを満喫できる稲刈り、その後のハザ掛けから脱穀、籾すり、精米にいたる、かなり面倒な工程を経て「みんなで作った新米」で餅つき、大いに食べて飲んで稲作体験は上がりになる。1年を通じて「お百姓さんの苦労」のほどはもちろん骨身に沁みて分かるが、それよりも稲作の一部始終を知ることで「日本文化」とはどういうものかが体得できることの意味は大きい。

田植え田植え:苗がまっすぐに並ぶように、しっかりと植えます。

第1に感じられるのは、稲作には1つとして無駄がないということ。目標はお米を取ることだが、その過程で出てくる藁は編んで縄にしたり草鞋にしたり筵にした。もみすりで出る籾殻は枕に入れたり詰め物にしたり(昔はりんご箱の中に籾殻が詰まり、それを掻き分けてりんごを取り出したものだった)。玄米を精米して出る糠はぬかみそに欠かせない。お米は主食になるばかりではない。もち米はもちになるし、せんべいのようなお菓子も出来る。米を炊いて発酵させればおいしいお酒も出来る。藁は来年まで取っておいて、稲刈りのとき稲束を束ねるには昨年の藁を使うのである。余った藁や籾があれば燃やして暖を取り、その灰は田んぼにまいて肥料にするのだから完璧なエコロジーである。

稲刈り稲刈り:鎌でバッサリ稲束を伐る…快感です。

第2に稲作こそが社会を作ってきたということ。田んぼは1人ではできない。みんなの共同によって田を作り、水を引き、適切な日を選んでいっせいに田植えをする。稲刈りも同様だ。かつての「ムラ」の団結力は田んぼが育んできたのである。みんなで力を合わせるということがとても気持ちよく、楽しいものだということは田植えや稲刈りで実感できた。季節の変化に合わせて適切に仕事を組み立てるには有能なリーダーが必要である。田んぼの政治がムラという共同社会を生み出して来たのだ。

脱穀脱穀:唸りを上げる機械がお米の粒を取り出します。

第3に稲作は芸能文化のルーツであるということ。歌や踊りも田んぼのあぜから生まれてきたのではなかろうか。これまでの経験の中では特に初夏の田植えの気分がよろしい。幼児から子ども、若者、働き盛り、じいさん・ばあさんまで一線に並んで苗を植えるが、笛や太鼓で囃し立てたくなるほど祝祭的な高揚感がある。一仕事終わればビールがうまいが、その後みんなで歌でも歌おうという気分になる。歴史を紐解けば、日本の芸能が稲作を土台にして出来上がったものだということが納得できる。いまでは日本文化の精髄である能楽も、元をただせば中世の「田楽」である。田んぼに神様をお招きするための芸能だったのである。

餅つき餅つき:老いも若きもみんなでぺったんこ。

そして第4に、稲作こそが自然保護に他ならないということ。無論農業というのは、原始の自然に対しては破壊活動の一種に違いないのだが、都市近郊の里山の自然を守るには稲作をすることに勝るものはなかろう。田んぼは一種のビオトープである。いろいろな生き物が田んぼという舞台で共棲している。ドジョウもタニシもカエルもヘビも田んぼという舞台に不可欠の役者である。子供たちにはそれだけでもワンダーランドだが、農薬を使わない田んぼにはホタルが出る。私たちの田んぼでも毎年ゲンジボタルの優雅な乱舞が見られる。闇の中に青白く明滅するホタルの光は息をのむほど美しい。識者の言によれば、ホタルというのは田んぼが作り出した生き物だと言ってもいいくらいなんだそうである。

田んぼにかかわることで、この列島に2千年来続いてきた稲作文化を、頭だけでなく全身で感じ取ることが出来た。まことに田んぼはまたとないワンダーランドなのである。

(薗田碩哉)

合歓の里 2016年 写真集


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