薗田碩哉の遊び半分

遊び半分の人生

 まもなく78歳の誕生日を迎える。父は77歳で亡くなったので何とか父の年を超えることができて、これも親孝行の一つかと思っている。しかし、母は96歳まで生きたので、これに追いつくのは容易なことではなく、正直自信がない。せめて父と母の享年の半ばぐらいを目標に人生の仕上げをめざしたい。つまりはあと10年の正念場ということである。

 改めてこれまでのわが生き様を振り返ってみると、1つの言葉が浮かび上がってくる。「遊び半分」という語である。私の場合、78年の生の中で「遊び」というキーワードが重要な位置を占めているのである。とはいえ、遊びが全部というわけではないし、もちろん遊びがなかったことはないから、その真ん中で「遊び半分」というしかないのである。

 一般に「遊び半分」というと、けっして誉め言葉ではない。辞書を引くと「遊び半分=なかば遊びの気分で、真剣さを欠き、いい加減なこと」(広辞苑)なんて書いてある。用例として「遊び半分で大学に行く」というのが挙げてある。とはいえ、大学生が数多存在する中で、毎日真剣に、眦(まなじり)を決して大学生活を送っている御仁がそんなにたくさんいるとは思われない。私の学生時代には、毎日大学に通っていても、教室に現れることはほとんどなく、門前にある雀荘に昼も夜も詰めていたという手合いだって少なくなかった。「遊び半分に」大学を出て、それでもちゃんとしかるべき企業に就職し、終わってみれば部長の肩書をもらうぐらいには出世した朋友はたくさんいる。

 私の「遊び半分」は、しかし、学生時代で終わる程度の生易しいものではないのである。私は官庁に籍を置いたことも企業の禄を食んだこともない。半世紀近い職業人生は徹底して第3セクター、言ってみれば「遊び半分」の組織で暮らした。文学部を出て就職したのは財団法人日本レクリエーション協会という団体。そのミッションは国民が余暇を活用して豊かなレクリエーションを享受できるようにする国民運動を推進すること。端的に言えば「国民生活にもっと遊びを!」というスローガンのもと、歌ったり踊ったりゲームをしたり、自然の中でのレクリエーションを楽しんだりするために、指導者を育てたりイベントを展開することだった。あっさり言えば「遊び」を仕事にしていたのである。遊びと言っても私にとってはメシの種の仕事なんだから、これは遊び全部ではなくて「遊び半分」というしかない。

 30年、レクリエーション運動に打ち込んだ後、スピンアウトして女子短大の先生になった。老舗のお嬢様学校だから、先生方はいたって真面目に良妻賢母教育に邁進しておられたが、私が持ち込んだテーマは、それまでの蓄積を生かした「余暇と遊び」である。人が生き生きと生き、理想の家庭を築き、コミュニティを活性化するには「余暇と遊び」を欠くことはできません、という趣旨である。日本の大学では欧米と異なって、レジャーやレクリエーションが重要な科目として評価されては来なかったので(いまでも「観光」を除いて、余暇と遊びの軽視は続いている)、私が作った「余暇コース」は結構珍しい存在だった。大学人の集まりで「先生のご専門は?」と聞かれる度に「余暇と遊びです」と答えてきたが、相手は必ず「よか??ひまの余暇ですか?」と聞き返したものである。そんなの聞いたこともないという反応で、あんまり尊敬されたことはない。それでも真面目に遊びを追求する「遊び半分」の授業は学生たちには好評で、教え子たちは社会のさまざまな場所で今も「遊び半分」の人生を楽しんでいるはずである。

 そして何よりも、このホームページの母体となった「さんさん幼児園」は、子どもたちの自由な遊びを何よりも大切にする「遊びの楽園」だった。わが妻でもある園長先生は誰よりも頼もしい遊びの同志であり、子どもたちはもとより、お母さんもお父さんも、おじいちゃんやおばあちゃんも引っ張り込んだ楽しい遊びのプログラムが四季折々に展開されていた。もちろん幼児園では真面目な日常生活も行われていたのだから遊び全部とは言えないが「遊び半分以上」の愉快な日々が30年、続いていたのである。

 後期高齢者になって、いろいろなお役目や講師の仕事が外れてきて、私にとっては初めて「余暇が(仕事でなく)余暇になった」という実感がある。その余暇に、これまでの「遊び半分」の生きざまを振り返って、改めて「遊び」の持つ大きな意味を問い直してみたい。「遊び半分」の時間が個人と社会を活性化するために、何ほどか役に立つものであることをさまざまな面から追求してみたい。

2021年4月4日 薗田 碩哉

薗田 碩哉 プロフィール

1943年、横浜市に生まれる。1962年私立栄光学園高校卒業、同年東京大学教養学部文科Ⅲ類入学、1966年東京大学文学部西洋近代語近代文学専修課程卒業。同年、(財)日本レクリエーション協会事務局に入局、以後30年間、広報、出版、企画、調査等に従事し、月刊『レクリエーション』編集長、同協会レジャー・レクリエーション研究所首席主任研究員、人材開発本部長、組織本部長を歴任。1996年、実践女子短大に移り、生活文化学科教授および生活福祉学科教授を務め、2012年退職。2007年、「レクリエーション運動史研究」で日本体育大学から体育科学博士を授与される。
学会活動は、日本レクリエーション学会(1971年創立に参加)、日本余暇学会(2007〜12年会長)、余暇ツーリズム学会(名誉会員)、日本福祉文化学会(1989年創立以来副会長、顧問を経て、現在は名誉会員)、ライフビジョン学会(顧問)。法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員等。
社会活動として1979年から2009年まで30年にわたり、東京都多摩市・町田市でフリー幼稚園「さんさん幼児園」運営に携わる。2003年には「NPOさんさんくらぶ」を設立、多摩ニュータウンを中心に教育、文化、福祉、環境に関わる市民活動を進めている。日野市、町田市の社会教育委員、町田市生涯学習審議会会長を歴任。
その他、町田市学校評価委員、(公財)社会教育協会理事、NPO法人町田市レクリエーション連盟理事長、町田市こひつじ幼稚園理事、など。

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