薗田碩哉の遊び半分

子どもたちは整列が好き?

夕方、家に帰る途中に小学校があり、校内に設けられている学童クラブから子どもたちが家路につく行列に出合うことがある。先頭は学童のスタッフで、その後に子どもたちが小さい子から順番に整然と並び、間隔をあけることもなく最後尾はまたスタッフが後詰めをしている。一行はほとんどおしゃべりもせずに粛々と巨大マンションが並ぶ方向へ進み、マンション前の小公園でめでたく解散となる。緊張の解けた子どもたちはそれこそ「蜘蛛の子を散らすように」かけ去っていく。数人、そのまま小公園に残って遊ぶ子も見かけるが、大多数は我が家へまっしぐらという感じだ。

筆者の子ども時代はどうだったろうか。学校の行き帰りは全く自由で、近所の友達と誘い合って登校することもあり、一人で勝手に行くこともあった。特に帰りは特別の用事でもない限りは家にまっすぐ帰らずに、あちこち「道草を喰って」帰るのが常であった。直帰するのは友だちとの約束がある時で、家の玄関にランドセルを放り出し身軽になって母親の顔も見ずに飛び出したものだ。当時は大通りでもそれほど車など走っておらず、交通事故は少なかった。それでも危険な場所もあり、怪しげなおじさんに誘拐される可能性だって皆無ではなかったが、集団で登下校するという発想は皆無だった。家庭と学校の間の空間は子どもの解放区であり、そこにある街並みも路地も原っぱも仲間を集めて自由に遊べる子どもの居場所だった。

下校途中の子供たち

学童帰りの整列を見ていて思い出したシーンがある。ミヒャエル・エンデのファンタジー『モモ』の映画版の一光景だ。それまでは広場に集まって空想の赴くまま自由に遊んでいた子どもたちが、町に侵入してきた「時間どろぼう=灰色の男たち」たちによって自由な時間を取り上げられてしまう。揃いの灰色のスーツに身を包んだ男たちは「時間をムダにするな」と叫びながら、長閑に暮らしていた人々を仕事に追い立てる。子どもたちも制服を着せられ、整然と並んで行進させられてしまう。それを見た主人公の少女モモは、灰色の男たちから時間を取り戻すべく、彼らの本拠地へ忍び込む・・・この映画の子どもたちの整列して行進するシーンがありありと浮かんできて、時間どろぼうは決して空想の産物ではなく、現にこの国で今でも着実に仕事をしているのだということが分かった。

知り合いの地域のおじさんにこの話をした。安全な街区の中を、たいして遠くもない家に帰るのにあんな風に整然と並ばせる必要があるのかねえ。するとおじさんは「それはね、わけがあるんだよ」と、そうなったいきさつを教えてくれた。もともと子どもたちは自由に好き勝手に家に帰っていたのだが、そうなれば当然、道すがら遊び遊び帰るわけで、途中でふざけて笑って大声を出すことも少なくなかった。それに対して周辺の住宅から「子どもの声がうるさい」「静謐であるべき住宅街を何と心得ているのか」「大声を出させるな、家にはまっすぐ帰らせろ」という苦情が教育委員会に寄せられ、委員会は子どもをかばうどころか、整列して静粛に帰るべく指示を出したというわけだ。なるほど、そういうわけか。そういえば最近、長野県あたりで、公園で遊ぶ子どもがうるさいと市に抗議した市民がいて、市はそれを受け入れて公園の閉鎖に踏み切ったというニュースがあった。この手の話は全国あちこちにあるのだろう。

「子どもの遊び声がうるさい」という感覚はいったいどういうことなんだろう。そうおっしゃる人たちに、お手前は子どもであったことはないのですか、子どもは風の子元気な子、集まってにぎやかに騒いでこそ子どもなんです。元気な子がいなくなって「何でもハイハイ」の意気地なしばかり育てて、この国の未来はどうなるんでしょうか、と聞いてみたくなる。筆者は昔、「さんさん幼児園」の2階に住んでいたので、日々これ子どもの笑い声・叫び声・泣き声とともに暮らしており、それが毎日のBGMであった。子どもの来ない休日はなんか寂しい思いをしたものだ。今でも子どもの歓声を聞くと何とも言えずうれしくなる。

「子どもがうるさい」と文句をつける大人たち―それも男性が多いようだが―は、たいてい孤独なんだと思う。職場でも人間関係がぎくしゃくし、家庭も平穏でなく、あるいは同居人のいない一人ぼっちの生活を送っているご仁が多いのではないか。昔々は子どもだったに違いなくても、大人になった今、日常的に子どもと触れ合う機会を持っていないのだ。人間はまことに勝手で、知らない人の声はうるさく不愉快でも、知人の声なら懐かしく感じるものである。遊び騒いでいる子どもの何人かを見知っていれば、元気な叫び声を聞いて「うるさい」ではなく「おお、やっているな」と好意的に感じられるはずである。公園の子どもがうるさいと思ったら、公園に出向いて子どもに注意をしたらいい。ただし、頭ごなしに叱りつけるのではなく「ちょっとおじさんの話を聞いてくれよ」と持ちかけたらいい。子どもたちと話をしたり、できれば一緒に遊んでみたらいい。子どもってなかなか面白い存在なんだということが分かれば、公園の騒音を「街のざわめき」の一つとして楽しむことができるようになるはずだ。

あちらこちらで聞こえてくる騒音問題への対策は、禁止事項を張り出したり、防音壁を作ったりするのではなく、地域の人々の交流を密にすることによってのみ、真の解決の方向が見えてくるのだと思う。

2023年1月4日 薗田 碩哉

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