昔々、筆者にも「いたいけな」子どものころがあったのだが(因みに「いたいけ」とは「いたいたしいほど可愛らしい」ということで、漢字ではどう書くのか調べたら「幼気」だそうだ)、そのころは遊びを始めるときには「この指とまれ」という作法があった。
太郎君が「鬼ごっこ」をしたくなったとする。すると太郎君は子どもの群れの中に入って行って、右手の人差し指を一本立てて頭上に差し上げ、
「おにごっこするもの、この指とまれ!!」
と高らかに呼び掛ける。するとたちまち次郎君がやって来て、太郎君の人差し指をしっかり握りしめ、その上で自分の人差し指を立てる。たちまち花子ちゃんもその指にとまる・・・
こうして太郎君の周りに人差し指で繋がって、押し合いへし合いする子どもの集団が出来上がる。
かくて適当な人数がそろったところで、みんなは輪になって、どんな鬼ごっこをするか、ルールはどうするかを決めるための「談合」に入る。あたり前の鬼ごっこではなく、逃げ手が木に触っていれば鬼に捕えられない「木鬼」とか、普通の地面より高い所にいれば大丈夫という「高鬼」にすることもあれば、あるいは誰かが特別のルールを提案することもある。また、それこそ「いたいけな」幼児が混ざっている場合には「みそっかす」ルールで、その子だけは鬼に捕まっても鬼にならなくてもいいことにしたりする。
もろもろ検討の上、評定がまとまれば、じゃんけんで鬼を決めてスタート! だ。
このプロセスを解析してみよう。
「この指とまれ」は契約である。
それも各々の自由意思に基づく、明快な約束だ。誰にも強制されずに自分で選んだ約束である。今日は鬼ごっこの気分じゃないと思えば、指にとまらずに傍観していればよい。それも承認された選択肢の1つであり、誰にも苦情を言われることはない。
時には、せっかく「この指とまれ」と提案しても、誰もとまってくれないこともある。そんな時はあきらめないで、さっそく対案を用意し「かくれんぼするもの、この指とまれ」と言い直せば、周囲の子どもたちの関心を引き寄せることも可能だった。
遊びが自由な契約に基づいて行われるというのは、そしてそれが子どもたちにとって楽しい一時を保証するものであることは、逆に、自由な契約ではない、押しつけられたり、いやいや参加したりするのは遊びではないということを含意している。
ある本にこんなエピソードが紹介されていた。ある幼稚園では「遊びの時間」が決まっていて、保育者があらかじめ「今日はこれをして遊びましょう」という計画を立てて、みんな一斉にその遊びをするのだという。ある日は「縄跳び」が遊びで、保育者が回す縄を子どもたちが順番に飛び越えていた。跳び終わった一人の子が保育者に尋ねた。
「センセイ! 縄跳び終わったら、遊んでもいいですか?」
この子は精一杯、押し付けられた遊びはホントの遊びじゃない!と抗議しているのである。
ルールというものはみんなで合意して決める。そうして決まったことは順守されるべき法である。それが近代社会の基本原則である。法が法として機能するためには、みんなで納得して決めることが前提である。王様とか天皇とか、誰か偉い人が上から押し付けてきたものは法ではない。したがって明治天皇が人民に下さったという、かつての明治憲法は近代的な法ではない。人民を押さえつけるための命令集に過ぎなかった。
子どもの遊びを「児戯に類する」などと馬鹿にするのは大きな誤りである。子どもの遊びの中には、契約と法の原型が埋め込まれている。ジャンジャック・ルソーの「社会契約」と「法の支配」は、まずは子どもの遊びの中で、いきいきと機能しているのだ。民主主義の後退が言われる今日、世の大人たちは今一度、子どもの遊びをその原点から遊び直してみる必要があるのではなかろうか。