薗田碩哉の遊び半分

遊びは平等の精神を養う

遊びについて考えるときの基本は「自由」ということにある。現にこのコラムでも遊びに不可欠な条件としての自由ついて何度も取り上げてきた。およそ自由でない遊び―例えば幼稚園で先生の指示のもとにいやでもやらされる遊び―は、もはや遊びの名に値しない。

自由と並んで「遊びと平等」というテーマも検討に値するだろう。遊んでいるとき、遊び手たちは互いに平等の位置にある。大きい子も小さい子も、年の行った子も幼い子も、鬼ごっこやかくれんぼをするときには、何の差別もない平等な立場で参加する。お金持ちの子もビンボー人の子も全く対等に走り比べをし、メンコやビー玉やおはじきに興ずるのである。そこに何らかの配慮が働いたら全く興ざめだ。大人の遊びとなると〈接待マージャン〉のような配慮の伴う遊びがあるが、これはもう外見は遊びでも、接待する方から見れば早く逃げ出したい苦行に他ならない。

もっとも遊び手の実力が大きく違いすぎて、遊びがつまらなくなってしまうこともある。1年生と6年生が競争遊びをしたら何によらず大きい子が勝つに決まっている。結果が分からないところが遊びの醍醐味なので、これでは遊びの面白さの大半が失われてしまう。そんな場合でも遊びの楽しさを維持するために考案されたのが「ハンディキャップ」という工夫だ。1年生が50メートルを走るうちに6年生は100メートル走らなくてはならない―こういう風にすればどちらが勝つかはわからない。力の差によって走る距離を工夫すれば、勝負の面白さはいかようにも作り出せる。ゴルフというゲームはこの「ハンデ」を制度化している点で、さすがはイギリスの紳士たちが楽しんだ遊びに違いない。日本でも、将棋や囲碁にはこれと同様の仕組みがあって、将棋なら飛車落ちと角落ちとか、囲碁なら置き碁と言って弱い方が何目かはじめから置いておくという手もある。これによってゲームの面白さが倍加することは言うまでもない。

遊びは平等の精神を養う

子どもたちももちろんこうした工夫をしている。特に面白いのは「みそっかす」という仕組みで、年端のゆかない、まだ遊びのルールさえよく分かっていないような幼児にも参加の機会を与えるやり方である。「みそっかす」として指名された子は、適当に、できる範囲で遊びに参加すればいい。その子は鬼ごっこで捕まってもオニにならなくていいし、野球遊びならゴロで打たせてもらえる―その代わり彼または彼女が得点してもアウトになっても、カウント外という約束だ。子ども社会における見習い教育という趣きである。これも遊びの仲間からは誰も排除しないという「平等」思想の表れであると見たい。

もう一つ、遊びの世界らしい雰囲気を作るためには、呼び名の平等というのが大切だ。遊びの中で互いに呼び合うときは、改まった言い方では面白くない。苗字では呼ばず名前の方で呼び、愛称はいいけれど敬称・敬語は使わない方がらしくなる。ボールを投げる相手に「太郎君行きますよ」とか「愛子さん投げますわよ」なんて言ったのではしまらない。「行くぞタロー」とか「アイちゃん投げるわよ」と直截に、簡潔に叫んでこそ遊びである。

さんさん幼児園では、子どもたち同士も、また保育者と子どもの間でも常に名前か愛称で呼び合っていたことを思い出す。子ども同士は当然として、保育者にも「せんせい」なんて言う敬称は付けずに「くみこ」「ちひろ」「はるみ」「ゆり」という名前だけでよびかけ、保育者もむろん「いつき」「たくみ」「はる」「ゆい」…と名前だけで呼んでいた。園長先生だけは名前でなく「そのだ」という苗字だったが、先生という敬称は付けられなかった。かく言う小生も実は薗田なのだが、この名は園長に取られてしまったので、やむなく「おひげ」と呼ばれる次第となった。

はじめの頃には、このことが父母会で問題になった。保育者を呼び捨てにする、まして園長先生に対して「そのだあ!」なんて言っているのは許しがたい。小学校に上がったらどうなるか…その辺も考えてちゃんと先生付きで呼ばせるようにしてほしい…。この意見には園長も保育者たちもまったく賛同しなかった。遊びが生活の主軸である幼稚園では、保育者もまた遊び友だちなのだから、それでいい、その方がお互いに気分がいい。それに子どもたちもちゃんとTPOを心得ていて、誰かにやられて保育者に助けを求めるときには「くみこせんせ~い、タローがいじめる~」と泣きついて来るのであるから、と。

後には、この慣習はすっかり定着して、父母も保育者を敬称抜きで呼んで少しも怪しまなくなった。街で出会ったときでも「やあ、ソノダ、今日はお買い物?」というような会話が交わされる。卒園して大きくなった子どもたちもたまに会えば「おひげ、いまは何してるの?」というような話になる。

遊びのなかから育ってきた「呼び捨てコミュニケーション」は、日本の社会にもっと広がってもいいはずである。欧米の学校では先生と生徒がファーストネームで呼び合うのが一般である。社会人同士も少し親しくなれば、ミスターとかミスとか言わずにニックネームで交流する。フランス語やドイツ語なら、相手に対して使う2人称が、ていねい体からざっくばらん体に変化して、フランス語ならvous(ヴ)がtu(チュ)に、ドイツ語なら Sie(ズィー)がdu(ドゥ)になる。「あなた」が「きみ、おまえ」になるということだ。

われわれ日本人はもっと、人間同士みな対等という精神を培う必要がある。それにはまずは一緒に遊んで、呼び捨てで気持ちよく交歓できる関係を増やしていこうではないか。

2023年12月23日 薗田 碩哉

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